コラム One Earth 新年のご挨拶がてら半生を振り返ってみました...
2019-01-04 更新
「One Earth」読者のみなさん!明けましておめでとうございます!
福島晴之です。
旧年中はOne Earthをご愛読いただき誠にありがとうございました。
本年も宜しくお願いいたします。
私事ですが、BCMに声を掛けていただきコラムを書くようになってかなり長い月日が経ちました。
いままで旅の紹介はさせていただきましたが、自分のプロフィール的なことはおこがましくて書いてきませんでした。
もう、早いものでスリランカにAframeというサーフショップを作って来年で20年になります。
ひとつの節目ということで今回はコラムOne Earth新年のご挨拶がてら半生を振り返ってみました。
幼少時代
昭和42年、光化学スモッグに侵されていた東京に生まれた僕は1歳になる前に重度の小児喘息と診断され転地療養を余儀なくされた。
神奈川県の葉山、秋谷海岸に5年ほど住み、小学校の低学年の時に逗子の小坪に移り住んだ。
子供の頃は生き物が好きで山では網を持って虫を追いかけまわし、池や小川でドジョウをすくい、それに飽きると堤防に行って釣りをして過ごしていた。
家には親があきれるほど沢山の水槽が所狭ましと並び、淡水魚だけでなく海の生き物もたくさん飼っていた。
週末は朝から漁船に乗って漁師たちと一緒に沖にでて網を引いた。珍しい魚が網に掛かるとその魚を水槽に入れてうっとり眺めていた。
中学に入ると東京の熱帯魚屋さんにも足を運ぶようになり、そこで自慢げに漁師さんとの話をすると是非この店にその珍しい魚を持ってきて欲しいと言われた。
熱帯性の海水魚というのはたいがいインドネシアなどの外国や沖縄などからやってくるから、日本近海の魚は逆に珍しいようだった。
その日から中学を卒業するまで週末になると魚の入ったビニール袋を持って小坪の漁港と東京の熱帯魚屋を行き来していた。
特にドチサメの子供は人気だった。大人しい性格だが、見た目はサメそのものだからウケがよかったのだ...。
サーフィンとの出会いは高校時代
中学の時に僕の釣りテリトリーだったのが小坪漁港の横にある有名なリーフポイントだ。
クロダイが釣れるポイントなのだが、釣りをしていると沖にサーファーがいるのだ。子供心に「邪魔だなぁ」と思いながらも、「あれがサーフィンかぁ」とアザラシのような彼らのことをぼんやりと眺めていた。
高校生になるとサーファーがモテるというような噂が広まり出した。
中学を卒業して異性に少し目覚めた僕はあの釣り場で見ていたサーフィンをやってみようと思った。
高校に入り、バイトして貯めたお金で葉山にあった「Ark」というサーフショップでサーフボードとウェットを買ってサーフィンを始めてみた。
その頃のサーファーといったら暴走族を卒業したての怖い人たちが多く、超縦社会時代だったので七里ヶ浜の正面ポイントや峰ヶ原でも先輩たちがいる場合は端っこの方でこぼれた波にがむしゃらになって乗っていた...。
旅への憧れ
サーフショップ「Ark」は5坪ほどの小さいお店だったが、いつもコアな先輩メンバーたちが集まるショップだった。
ある日、真っ黒に日焼けした先輩たちが楽しそうにバリ島の旅の話をしていた。
「とにかくバリの波はハンパなくてパーフェクト、人もいないから乗り放題だったぞぉ!」
先輩は日本ではまだ売っていなかったGaramというタバコを深く吸いながら目をつぶって回想するように旅にまつわる話を色々としていた。
「一生に一度で良いから俺も海外に行ってサーフィンをしてみたい!」と僕は強く思った。
それから僕は高校を卒業するまでの数年間、葉山から茅ケ崎あたりまでを守備範囲として少しでも波があれば学校にも行かずにサーフィンばかりしていたのだ...。
突然東京へ引っ越す
高校卒業後。突然、「お前の喘息も治ったみたいだし」と親から東京に引っ越すと告げられた。
そういえば喘息はサーフィンを初めてから2ヵ月ほどして全く治ってしまった。
海の側から離れるのは落ち込むほど嫌だったが、自立するガッツもお金もなく、親の言う通りに東京暮らしをするしかなかった。
東京に引っ越すと環境ががらりと変わった。
スクーターで10分も走ればサーフポイントに行けた環境から電車を使って1時間以上かけて海に行くなんて考えられなかった。
サーフィンを諦めてスケートボードと刺激の多い街での遊びに没頭していった...。
バブル~海外は身近なものへ
80年代は色んな意味で環境がどんどん変わっていった。
バブル期に突入すると夢だと思っていた海外旅行が当たり前となり、留学する人だって周りにはちらほらいるようになっていた。
海外に憧れていた僕もグアムやカルフォルニアを旅行することができたし、一度海外旅行を経験すると今度は留学もしてみたくなった。
インターネットが無い時代だったので大使館や本屋に行って色々な情報を集めた。なるべく物価が安くて日本人が少なくて出来れば常夏の場所。
「ここだぁ!」って思ったのがオーストラリアにあるクイーンズランド州のブリスベンという街。
早速、オーストラリア大使館に行って学校の資料をかき集め、その中から学校を決めると簡単な英語で手紙を書いて学校に申し込んだ。
全てアナログの文通で学校とやり取りをしたので授業料の送金など手続きが終わるまで半年以上かかった。
そして、ついに留学に漕ぎつけた僕はドキドキしながら初めてのひとり渡航を経験したのだった...。
しばらくして学校や生活にも慣れるとShare Mate募集という記事を英字新聞で見つけ、未亡人の女性と二人で生活をした。その女性のお蔭で高校の時は落第寸前だった僕も英語力が少しずつ付いていった。
学校には数名の日本人サーファーがいた。
ブリスベンからゴールドコーストはおよそ100kmの距離。 初めの1年は勉強ばかりしていたが、自分でルールを決めて再びサーフィンを始めることにした。
月曜から金曜までは真面目に勉強して土曜の朝から日曜まではバイロンベイ、クーランガッタ、サンシャインコーストなどへ泊まりがけでサーフィンに集中した。
当時のオーストラリアは物価も安くてサーフィンをするのにも、あまりお金がかからなかった。
ヌーサヘッズのパーフェクトで最高に乗りやすいライトブレイク、ニューサウスウェールス州との州境にあるクーランガッタという街にはキラ、グリーンマウント、スナッパー、デュランバーというポイントが隣接していた。
当時はキラとデュランバーにはいつも凄腕のローカルたちが集まり、スナッパーやグリーンマウントは比較的空いていることが多かった。
他にもスピット、バーレイヘッズ、カランビン、レノックスなど良いポイントが沢山あった。
自然が豊かで気候も最高なオーストラリアが大好きだったし、永住することも夢見たが、色々と考えて一度東京に戻ることにした...。
再び帰国して
オーストラリアから帰国後。
仕事に就くも数年間はパチンコにはまりダラダラとした生活を続けていた。そして、サーフィンも行くのも億劫になり止めてしまったのだ。
当時は付き合っていたガールフレンドがいたのだが、そんな僕に愛想を尽かし、別れを告げられた...。
彼女に振られると突然僕は目が覚めたようにパチンコに行くのを止めて波乗りがしたいという衝動にかられた。
貯めたお金で車を買おうと近所の中古車屋に車を買いに行った。車屋の社長と世間話をしていたら彼もまたサーフィンを復活したいと言う。
それから僕らは意気投合して一緒に波乗りに行くようになった。
日本では湘南の波しか知らなかった僕も社長に連れられて千葉や茨城の鹿嶋に行くようになった。
そこでは贅沢を言わなければいつも波があることに驚かされた。
その車屋の社長には他にもサーファーのお客さんが数人いて少しずつ海に向かうメンバーが増えて行った。
サーフィンにますます没頭していったが冬はスノーボードも同じくらい気合いを入れてやるようになった。子供の頃から父に連れられてスキーをやっていたのでスノーボードへの興味も強かった。
しばらくはサラリーマンをやっていたが、僕のスノーボード熱に関心を持った父の友人がスノーウェアの輸入販売を一緒にやろうと誘ってくれた。
二つ返事でスノー業界に入り、仕事を通じてスキーヤーやボーダーはもちろん、サーファーの仲間も増えていった。
ある日系カナディアンの少年との出会い
ある日、店番をしていると18歳くらいの少年が祖母と思われる人と店に入って来た。
彼の名前はMakitoといってカナダ生まれの日系人。
カナダから日本にいる祖母を訪ねてきたそうだ。物を買いに来たのではなく、「日本でサーフィンをするにはどうすればいいのか?」との相談だった。
良く話を聞いたら家も近かったので僕の休みの日や仕事の始まる前にだったら連れて行ってあげると約束をした。
Makitoはカナダに住んでいた頃にトリップしたコスタリカやインドネシアでのできごとをよく話してくれた。
コスタリカではキャンプ中にパスポートと財布以外の全て盗まれ、宿のベッドシーツを拝借してまるで民族衣装のようにシーツを体にぐるぐる巻きにして飛行機に乗って真冬のカナダに帰国した時の話。
数万円の現金のみで1か月以上もインドネシアで極貧サーフトリップに明け暮れた話など。
いつも彼の話は面白くて刺激的だった。
Makitoは出会って数ヶ月間東京でバイト生活をした後、千葉の太東にあったコンビニでバイトしながら本格的にサーフィンを始めた。
僕よりも10歳も年下で日本語も完璧でないのに環境に適応してコンビニの廃棄になる弁当やオニギリで食い繋ぎながらも思いっきりサーフィンライフを楽しんでいた。
彼のワイルドさを凄く羨ましく思った。
その翌年、僕は友人とMakitoの情報を頼りにコスタリカのサンホセからハコー、ドミニカルなどをレンタカーで駆け巡った。Makitoの言っていた通り、川にはそこいらじゅうにワニ、原っぱにはでかいイグアナがわんさかといてワイルドそのもの。
波もビーチブレイクが中心だが、凄くパワフルな波だった。
僕はこの旅を起点としてますますサーフトリップにハマっていったのだ...。
決心の時
実はオーストラリアから帰国した時に僕はもう一度長い旅に出るという目標があった。
スノーウェアの販売をしながら3年間も図太く実家に居座り、300万円もの貯金を貯めていた。
1999年、32歳になった僕はサーフボード2本と60リットルのリュックを背負って旅に出た。
7か月間にハワイ、スリランカ、フィリピン、インドネシア、モルジブ、タイ、アメリカに行き、思いっきり自由なバックパッカースタイルのサーフトリップを続けた。
旅の終盤はニアスで知り合ったオージーに誘われ、車をシェアしてアフリカ大陸を1か月間旅する予定でいたのだが、この年の2月に行ったスリランカの南西部(ヒッカドゥワ)で知り合ったローカルに東海岸にあるアルガンベイのシーズンにもう一度来いと誘われた。
その誘いのまま、6月に再びスリランカに上陸した。
1ヶ月もの間スリランカで過ごすと地球の果てのような雄大さとローカルと築いた友情に心が動かされ始めていた。
ある日、一番仲良くしていたローカルのマンボーが「スリランカにはサーフショップがない」と語った。
その一言がいつまでも頭から離れずにアフリカ行きの決断をしなければいけなくなった時、僕はある決心をしたのだ。
そして、数か月後、スリランカローカルたちと一緒にスリランカで第一号となるAframeサーフショップをオープンさせたのだ。
いまではAframe Peak(三角波)という言葉は当たり前に使われているが、実はこのフレーズはMakitoが教えてくれた言葉で当時は外国人でもこの意味を知っている人は少なかった。
由来はサーフショップの目の前にあったスリランカを代表する波がAframeだったからだ。
サーフショップを見たことがないスリランカ人には僕が必要だと勝手に思いこみ、スリランカに留まる決意をした。
アフリカの波には乗れなかったが、3年もの間、日本とスリランカを行ったり来たり、商品の仕入れに立ち寄ったタイやインドネシアでもサーフィンばかりしていた...。
BCMのコラムを依頼される
ある日、スリランカにいる時にBCMの担当の方から波情報を依頼された。
もちろん、快く引き受けた。しばらくすると今度はスリランカの生活についてのコラムを頼まれ、いつしかコラムの内容はサーフトリップに変化していった。
この「One Earth」というコラムが始まって18年、全ての始まりとなったAframeができて来年2019年の11月で20年となる。
書き始めの頃のコラムをたまに読み返すと凄く恥ずかしい。独身だった僕も35歳で結婚して40歳の時に子供ができて今までとは違ったスタイルでサーフィンを続けている。
暖かい季節には家族みんなでビーチやキャンプに行って子供達の笑顔を見られることは本当に幸せを感じる。
欲張りかもしれないけど一方、もうひとりの自分はまた一人でリュックとサーフボードを背負って半年くらい海外を放浪したいと言っている。
まだ行ったことのない国々に行ってみたことのない景色を見てその空気に触れてみたい。
80歳でエベレストに登頂した三浦雄一郎さんを始め、歳をとっても少年のように夢を実現している人が沢山いるのだから...。
終わり
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