「2019年スリランカ20周年の旅⑰」
2020-05-09 更新
前回はハルさんこと福島晴之氏、マンボーがスリランカと日本のJPSAの大きな架け橋になったストーリーでしたが、今回は打って変わって痛々しい話。人生さえも左右した大怪我の話です。
スリランカとの別れ
2002年の10月、僕と妻はいつものようにタイを放浪した後に再びスリランカに渡航した。
雨季だった南西部のヒッカドゥワのビーチも10月になるともうすぐ始まる乾季のシーズンインに向けて町全体がその準備に活気づいてくる。
『A Frame Surf Shop』や、マンボーの経営するレストランもアルガンベイのオフシーズンの到来と共に従業員達が移動してくる。
移動してくるのは人だけでなく、砂も一緒だ。
オフシーズンのサイドショアによって店ごと海に落ちそうになるほどビーチの砂が削り取られてしまうのだが、乾季になると砂が徐々に戻ってくるのだ。
砂浜が広がりだすとそこにバーカウンターやHutと呼ばれるヤシの木と葉で作った日よけ用の大きな傘を砂浜に設置する。
こういった作業も業者がやるのではなく、全てマンボーは自分達でやるのだ。
「お~いハル!手伝ってくれ~」
朝からゴロゴロしていた僕はマンボーに呼ばれて表に出た。
すると直径40cm、3mほどの長さのヤシの木を3人で運んでいるので、僕は空いているところに入って肩でお神輿を担ぐスタイルで手伝った。
先頭のマンボーと後ろにいるチャマラは身長が180cm近くある。チビの僕はなんだかぶら下がっているような??感じだった。
でも、呼ばれたからには、一応やってま~す的なおちゃらけた気持ちでいた。
レストランの通路を通り過ぎ、『A Frame Surf Shop』の店の前にあるウッドデッキにマンボーが降りた時、まるで落とし穴に落ちた時のようにメキメキという音とともにマンボーが床板を踏み抜いてしまった...。
雨季のオフシーズン中に湿気をたっぷり吸ったウッドデッキはすでに腐っていたのだった。
100kg以上あるヤシの木はすぐ後ろにいた僕の左手を巻き込んでレストランの通路との段差のコンクリートにコ~ンという鈍い音と共に落下した。
危険の伴う作業なのに中途半端な気持ちで手伝っていたのが間違いだった。
「注意一秒 怪我一生」とはまさにこのことだった...。
左手は踏みつぶされたカエルのようになっていたが、シーズン終わるまでには波乗りができるだろうと思い、スリランカの病院で手術を3回して手を吊ったまま寝ている生活を1か月ほど過ごした。
ある日、左手の状態を見るために医者が包帯を外した。
久しぶりに見る我が左手は変わり果てていた。骨まで露出しそうなほど炎症が進行していたのだ...。
これは日本で治療するほうが良いと思い、即決で帰国を決めた。
帰国して更に4回の手術を受け、1年近く包帯を巻いた生活を強いられた。
親指と人差し指は全く動かなくなってしまったが、他の指は動くようになった。
固くなっていた手首もリハビリを重ねて少しずつ稼働するようになったし、薬指にも力が入るようになったのでサーフィンも徐々にできるようになっていった。
この手の怪我をして色々と考えた結果、僕は改めて日本で生活をする道を選んだ。
それは考えたというよりは直感的だった。
間違いなく自分の人生に大きく影響したスリランカでの生活。
今でもスリランカの友人、波そしてあの景色を思わない日は1日もない。
さて、今回は少し暗い話になってしまいましたが、次回からは『A Frame Surf Shop』生誕10周年の話や、昨年の11月に渡航してきた20周年の旅の話を書こうと思います。
続く。
今回の大怪我をきっかけに帰国して日本をベースに活動するようになったハルさん。
現在は都内のスキーショップで働きながら海と山を満喫しています。
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