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「1991年、日本ビッグウエイブ開拓元年。」- F+(エフプラス)

2020-10-19 更新
Text by つのだゆき、Photo by snowy

世界中でサーフィンカメラマンやライターが失業の憂き目にあってるわけだけど、ほかの仕事につく人も多いなか、経済的に少し余裕がある人は、過去の写真整理とかに追われているようで、こうやってツアーがなく、新しい写真が生まれない、となれば過去のアーカイブを求められることも多くなるのだろう。

先日、古くからいるカメラマンから、日本の宮崎で試合をやったのは何年だったっけ? なんかすごい波が来た年は何年? と聞かれた。
なんでも、未現像の古いフィルムが出てきて現像してみたら、宮崎の写真とワイメアのエディ・アイカウのビッグウエイブの写真だったのだという。


ASP宮崎プロ。確か3年間やってたと思うけど、台風がダブルで来て、すごい波に恵まれたのを覚えていた。しかし残念ながらコンテスト会場の木崎浜はクローズアウトの中での試合強行、波が良かったのは内海や鵜戸下あたりだった。
内海は現カレンズポイントと呼ばれている内海のアウトサイド。
カレンズポイントといえば思い出すのは宮崎ローカル緒方申八プロ。元気かなぁ、申八。確か新八じゃなくて申八だったはず。ご無沙汰しています。

あれって、最初の年だったか2年目だったか……う~ん、2年連続で波があったような気がしていたので、正確なところがわからなかった。で、そうだ、私コンテストプログラム作ったからあるかも、と思って、そういうものはほとんど捨てちゃってるんだけど、過去の作品をひっくり返してみたら、古い試合のプログラムのなかに、その時の波が表紙になってるものがあり、見れば1992年の10月の試合のプログラム。92年の表紙に載ってるってことは事件が起きたのは1991年だわよね。
企画運営(株)トリトーン! トリトーン堺さん、お元気でしょうか?
懐かしいなぁ。30年も前のことではあるけど、いろんな人の顔や名前が出てきちゃうなぁ。そうそう、この相撲のイラストのポスター、選手がみんな欲しがってたっけ。

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この表紙の写真は鵜戸下。ライダーはマーティン・ポッター、ポッツ。カレンズポイントのほうがサイズはあったけど、鵜戸下のほうが掘れてた。選手たちはバックドアみたいな波だった、って言ってたっけ。ツアーを回り始めたばかりのケリーも来ていた。
当時はそれはそれはセンセーショナルにこの時の波が、世界中の専門誌各紙で報道された。まだ日本にもサーフィン専門誌と言われる雑誌がたくさんあった時代だ。

しかし、正直なところ今見ると、う~ん、いい波だね、というレベルで、なんかあんなにセンセーショナルに騒ぐほどのもんじゃないかな、と感じる。
そしてオバサンは考えた。
1991年の宮崎プロのダブル台風のスウェルから、日本のビッグウエイブ開拓の歴史が始まったのではないか、と。

カレンズポイントも鵜戸下も、それまで同じように台風が来れば波はそこにあった。ただ、宮崎周辺にはほかにもいい台風スポットがたくさんあって、誰もそのハード過ぎるビッグウエイブには目を向けなかったのだ。
トム・カレンがサーフしたからカレンズポイントなわけだけど、内海のアウトサイド、カレンズポイントや台風の超ヘビーな鵜戸下は、ASPサーファーたちによって開拓された波だ。緒方申八は、その後カレンズポイントにこだわってサーフしていた。

もちろんそれまでも、台風が来たらここ、みたいな流れはあったけど、もっとハードに、もっとヘビーに、というのはこのころからではないか。それは世界的にも同じようなことが起きていて、タヒチのチョープー、カリフォルニアのマーベリックス、ジョーズあたりも90年代からではなかったか。
今、この写真を見てもそれほど驚かないのは、私たちがこの手の波を攻略するサーファーの姿を見慣れているからだろう。でも30年前は驚愕だった。それだけビッグウエイブに対するサーフボードやサーファーが進化したということなんだと思う。もちろんそこにはジェットスキーによるアシストも外せない要因ではある。

1991年、日本ビッグウエイブ開拓元年。それは黒船によってもたらされた。この年の宮崎プロがなかったら、日本のビッグウエイブスポットの開拓は、もっともっと後の時代のことになっていたのだろう。

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